自作派のオーディオマニアからは神様とまで崇められた長岡鉄男が、亡くなる直前に残した言葉が「歪も音の内である」。当時の自称オーディオマニアだった私がオーディオ観のみならず、人生観をも変えた言葉の意味とは?
長岡鉄男
人物
東京府(現:東京都)出身。初めは放送・コント作家であったが、1959年(昭和34年)頃からオーディオ評論家として活動。作家ならではの筆力とユーモアあふれる文章でメーカーに媚びない辛口の批評を書くことによって人気を博した。コストパフォーマンスを重視した廉価製品の評価、自作スピーカーの工作記事およびソフト紹介(主に外盤)でも知られ、生涯に600種類もの自作スピーカーの設計を発表、生涯に保有したレコード、CD、LDの数は総計5万枚に及ぶ。
晩年には究極のホームシアタールームを実現するため、埼玉県越谷市の自宅に「方舟(はこぶね)」と自称する建物を建てて話題となった。レコード評論家としても有名であった。趣味はアンティークカメラの蒐集。
私のような自作派から人気があった一つの理由は、メーカー製のスピーカーの批評が正直だったからでした。通常、プロのオーディオ評論家が書く批評は、メーカーに不利な事は絶対に書かないのが常識ですが、長岡鉄男は平気で書いていました。
「メーカーのスピーカーの設計思想は、万人向け」というのが思想の根底にあったと思いますが、それはメーカーとしては当然の事なので、長岡鉄男の辛口な批評は、オーディオ業界への男の愛情表現と捉えるべきだと思います。
自作派にとってのオーディオ観は、「オンリーワン」の音を追求することです。メーカー製の高価な機材を買い集めて、自宅にオーディオルームを作って、万人が認める最高のオーディオセットを構築するのとは真逆の方向性です。
では「オンリーワン」の音とは、どんな音なのでしょうか?
究極のオーディオとは「生の音」?
オーディオマニアの中には、生演奏のコンサートやライブにはあまり出かけないという人がけっこう居ました。
私は近所に平和記念聖堂という大きな教会があって、無料で毎月のようにパイプオルガンの生演奏が聴けたので、そこからオーディオに入ったという、ある意味では恵まれた環境にありました。
とは言っても、当時の広島市にはまともにコンサートが聴ける施設は無く、東京に就職してからは、音楽鑑賞では夢のような環境に恵まれました。
しかし、当時通っていたのは、銀座のガード下の小汚い小さなライブハウス。500円でワンドリンク付きで、人気アイドルの太田裕美やキャンディーズのライブを聴いていました。音楽は音質以上に楽しむことの大切さをこの頃に味わいました。
そしてジャズ喫茶にもよく通いました。地下への階段を降りて、中に入ると薄暗い部屋の壁際に個人席が並んでいます。各テーブルにはキャンドルが1本。できるだけ隅の席に座ってコーヒーをおかわりしながら小一時間ジャズに浸ります。
アナログレコードと巨大なスピーカーから流れる音楽は、生演奏を超える迫力がありました。そして、ジャズ喫茶の店主がこだわりの音作りをしているのに気がついた時に、「オンリーワン」の音作りに目覚めました。
自作スピーカーは音が良いのか?
「オンリーワン」なので、万人向けでは無い。一言で言うと「自己満足の象徴」だと思います。しかし、例えば、私がピアノなりバイオリンなりを弾いて聴かせたい最高の環境は、たった一人の観客ですね。
数万人を80%満足させるのか、一人を120%満足させるのか、どちらを選ぶか?という究極の選択をするなら、後者を選ぶと思います。マニアというのはそういうものではないでしょうか?
今持っている自作スピーカーはこんな感じです。
住んでいる部屋が狭いので、押入れに入れてあります。10cmフルレンジなので低音が出ないので、JSP方式の特殊なバスレフキャビネットを作って重低音まで出せるようにしています。
これを帰省した弟に聴かせたところ、「あんまり音が良くないなあ。メーカー製の方がいいんじゃないの?」と言っていました。弟は常に辛口の批評をしてくれます・・・
FOSTEX フルレンジ FE103En
まとめ
長岡鉄男が残した「歪も音の内である」という言葉の意味は最初はよくわかりませんでした。それまでのオーディオ観では「歪が無いのが理想」でしたから、わからないのは当然です。
その意味を考える内に、長岡鉄男は「自分に正直に生きよう」と言ってくれたのかな?と思うようになりました。良いことも悪いことも全部ひっくるめての自分だから、それを認めて、悪いことも個性として愛せよ、そう言っているように思えてきました。
言葉は解釈次第なので正解は無いと思いますが、私の解釈は、その後の私の人生に少なからず影響を及ぼしました。
ではでは、きらやん